摂取院

金光山摂取院

宗派 浄土宗

ご本尊 阿弥陀如来

津軽八十八ヵ所霊場 第三十五番札所

由緒

正治二年(1200)、

法然上人の高弟・金光上人は

師の念仏弘道の命により、

奥州に下向し東北各地で布教。

そして最後の目的地、

津軽に向かいます。

建保元年(1213)、

秋田の土崎から小舟で

津軽の深浦を目指しますが、

波が荒く船が出せませんでした。

その為、

陸路の矢立峠

(秋田県大館市)から津軽へ。

金光上人は梵珠山に籠もり、

小屋を建てて念仏を布教します。

しかし蝦夷の襲撃で小屋が焼かれ、

やむなく浪岡に移りました。

地頭・甲野七衛門氏より

馬捨盛の借用を願い、

ここに庵を結びます。

*馬捨盛とは年寄りや病人を

捨てる場所だったそうです。

上人は死人を埋葬する一方で

病人の為に藤崎の沼に出かけ、

水草を取って乾燥させて

夜具を作りました。

そして藤崎法輪丘の老松の空洞を

寝ぐらにして、

人々に浄土の道を説法します。

建保五年(1218)、

上人は疲労で倒れ、

六十三歳で亡くなりました。

甲野七衛門氏は菩提を弔う為、

入寂の地・馬捨盛に西光寺、

藤崎法輪丘に施主堂を建立します。

施主堂が施主院、

その後に摂取院と

呼ばれるようになりました。

『しろしめし

しちひゃくねんの

ふることを

かたりがほなる

まつかぜのおと』

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